工具

遁世生活を送るための最善策は何でしょうか。証人保護プログラムに登録し、新たな名前をもつことでしょうか。人里離れた森の中で、CIAやMI6の隠れ家に住み込むことでしょうか。どちらも有効でしょうが、極端であることは否めません。そこで、時計製造工具の設計者や製造者になってみるのはどうでしょうか、ここで言う工具とは、ベルジュロン社などの供給専門業者が販売するスクリュードライバー、微小なピンセット、ダストカバー、その他時計製造に使われる無数の工具のような一般的な工具ではありません。むしろ、特定のキャリバーの組立・仕上げを行う際に時計職人のために特別に設計された特製工具のことです。こうした工具はすべて社内で製造され、市場で販売されることは決してありませんが、ムーブメントの製造に不可欠なものです。しかしながら、いかに特製工具が不可欠なものであっても、どんなに時計職人がそれを必要としていても、当の制作者は時計愛好家に称賛されることも、インスタグラムに投稿されることも、GPHG賞を受賞することもありません。その匿名性は、隠れ家の住民に肉薄するものがあるのです。

一方で、もしジュウ渓谷に構える2つのアトリエ(大規模なアトリエはル・サンティエ、もう一つは3キロ離れたル・ブラッシュ)を訪問する機会があり、作業中の時計職人を注意深く観察してみると、特製工具が至るところにあることに気付くでしょう。精巧なムーブメントの製作においてほぼ全ての段階にこうした特製工具が使用されるところを目の当たりにすると、2つの疑問が浮かび上がってきます。「これほどまで器用な工具設計者について、なぜ殆ど何も語られてこなかったのか」、そして「彼らはどのように仕事へ取り組んでいるのか」という疑問です。親愛なる読者の皆さん、この特殊な時計製造工具が考案・採用されていく様子を共に覗き込んでみましょう。ひいてはそれが作り手にオマージュを捧げ、この職業の様々な側面に光を当てることへとつながります。

組立の手法において、ムーブメントの設計と工具の設計が同時進行する例を示す、特別な工具をひとつ取り上げましょう。ブランパンのムーブメントに使用されるフリースプラングテンプです。この設計では、テン輪のヒゲゼンマイの両端をしっかりと固定する必要があります。1 

^{1 フリースプラング型の構造における時計の調整(歩度の調整)は、テン輪に取り付けられた4つの調整ネジを調節して行います。ネジを外側に回すと歩度が遅れ、内側に回すと歩度が進みます。アイススケート選手の回転を思い浮かべてください。腕を広げると回転が遅れ、腕をたたむと回転が加速します。これは比較的安価な緩急針式の調整システムと著しく異なります。緩急針では、ヒゲゼンマイの外端を可動式アームに取り付けられた2本のピンに通します。時計職人は緩急針の位置を操作することによって、ヒゲゼンマイの有効長を変えます。緩急針式の場合、衝撃を受けるとアームが動く可能性があるため、耐衝撃性は劣ります。また、歩度を変更する際、時計職人が緩急針を前後に動かしながら調整を行いますが、どれくらい動かすとどの程度変化するのか、フリースプラング型ほど正確に予測できません}

時計製造の中核を成す作業として、次の工程に移る前に、ムーブメントのパーツが適切に組み立てられているか、そして正確に機能するかを確認する作業があります。専門工具はこうした仕事に必要とされます。例を3つ挙げましょう。テン輪、ヒゲゼンマイ、脱進機、トゥールビヨン キャリッジの最初の組立が終わると、時計職人は各パーツを特製工具に置き、爪石が脱進機と噛み合うか確認します。その目的は必要最小限の深さにすることです。噛み合う位置が深すぎると、エネルギーを過度に消費してパワーリザーブが低下してしまうからです。キャリッジは土台に固定し、カナと噛み合う1本の歯車を小型バネで駆動させてエネルギーを脱進機に伝えます。このバネでは僅かな時間しか脱進機を駆動させることができませんが、時計職人が爪石の噛み合い位置を観察・制御するには十分です。この極めて重要な検査段階は、部品がムーブメントに組み立てられた状態では基本的に行えません。類似の検査は、「ヴィルレ フライング トゥールビヨン ジャンピングアワー レトログラード ミニッツ」の組立でも実施されています。アワーマーカーのディスクは断面図で見ると、サンドイッチ状の部品として組み立てられています。まずディスク、次にブリッジがあり、その下に位置する特殊な歯車(ご察しの通り、歯は12本あり,1本1時間に相当します)が、歯車の動きを制御する機構の他の部品と噛み合っています。ここではディスクが適切に回転することが肝要であり、可動性を確保する一方で、遊びを取り過ぎてもいけません。この公差は厳格であり、組み立てた部品はディスク、ブリッジ、歯車に合わせた特製ホルダーの上で検査を行い、構成部品の深さを厳密に計測します。これと同様の公差を求められるのが、複雑なヴィルレチャイニーズ カレンダーの機構です。このムーブメントでは、カレンダー機構に使用されるフィンガースプリングの力を制御するために、特殊な工具が製作されました。各フィンガースプリングの形状を制御し、ムーブメントに搭載する上で適切な張力になっていることを検証するために、独自のホルダーが製作されたのです。

上記のように、新しい独創的な装置を作ることが全ての工具に対して設計者に求められるわけではありません。しかし、工具が平凡に見えるからと言って、その工具に重要性がないわけではありません。カルーセル ミニッツリピーターのようなミニッツリピーターを例に取りましょう。時計職人が組立の各段階でミニッツリピーターの動作と音色を評価するには、ホルダーが必要です。ブランパンの工具製造者はムーブメント用のホルダーを製作しましたが、これは当然ながらムーブメントの寸法を厳密に計測したもので、チャイムを作動させるためのスライドやリング状のゴングの留め具の寸法まで計測されています。カルーセル ミニッツリピーターフライバック クロノグラフ用のホルダーも同じ方針で製作され、組み込まれたプッシュボタンを押せばクロノグラフを作動できるようになっています。

工具の中には、一般販売されている器具をベースにして、ブランパンが時計職人のために補強・改造を施したものもあります。ブランパンのムーブメント設計者は針の取り付けに厳密な締め具合を規定しました。パラーメーターは針毎に異なり、例えばある時針の締め具合はクロノグラフ秒針と異なります。設計の仕様を満たすために、ブランパンの工具設計者は針の取り付け用に大量のプッシュボタンを準備し、適切な強さのバネをもつ針に合わせて異なる色を塗布しました。バネの強さも針毎に規定されます。ムーブメントを圧力検出装置に置くと、時計職人は針毎に適切なプッシュボタンを選択し、コンピューター画面に表示される力を確認することができます。圧力検出装置は社外で製造されますが、残りの工具は社内で開発されます。

ムーブメントの部品の仕上げに目を向ければ、そこにも特殊工具に満ちた世界が広がっています。工具の規模を理解するには、ブランパンのムーブメントに施される仕上げに6種類の主要カテゴリーがあることを考えてみましょう。そのカテゴリーとは、エッジ部分の細かなポリッシュ加工(アングラージュ)、真珠模様(ペルラージュ仕上げ)、ブリッジに施す波状の装飾(コート・ド・ジュネーブ)、スティール部品に施す筋目(サテン仕上げ)、鏡面仕上げ(ミラーポリッシュ)、面取り加工(ムルラージュ)です。次に、ひとつの部品に複数の仕上げが施される場合を想像してみましょう。例えば、ブリッジにはその平らな表面にコート・ド・ジュネーブ仕上げ、先端にアングラージュ、そしてネジや石の穴の外側に面取り加工を施します。この組み合わせに加えて、どんなムーブメントにも形状の異なる部品が無数にあり、特定の仕上げを施すには部品を固定する特殊工具が必要だという事実がのしかかります。すると、どのムーブメントにも、目のくらむような各種工具のマトリックスができあがります。「マトリックス(行列)」はまさにぴったりな言葉だと言えるでしょう。ル・ブラッシュの仕上げ職人の引き出しを一つ開けてみると、20以上の行と20の列から成る容器がずらりと並んでいます。合計で400個もの異なる特殊工具が収まっており、どれもが特定の仕上げのために個別の部品の形状へ合わせてあるのです。

ル・サンティエとル・ブラッシュにあるブランパンのアトリエを歩き、上記の工具や、同じく重要な他の工具が利用される様子を観察すると、この類まれな時計製造の技能がインターネット、ソーシャルメディア、出版物で殆ど取り上げられてこなかった事実に驚かされます。ただし、工具製造者の貢献度を深く理解している集団がひとつだけあります。それは、彼らの工具を必要としている時計職人たちに他なりません。