Chapter 10
クロノメトリーとパフォーマンスを高める ブランパンのムーブメントの3つの特徴。
2016年 に公開された映画の中で、賞賛と感動を呼んだ作品のひとつに『ドリーム』(原題:Hidden Figures)が挙げられるでしょう。これは1960年代のNASAで暗躍した黒人女性たちの物語です。宇宙飛行士たちが拍手喝采を浴びた舞台の裏で、この女性たちは手作業での計算によって彼らの初期の宇宙飛行を支えたのでした。軌道計算にIBMのコンピューターが導入されて以降も、ジョン・グレンは彼女たちが手作業で数字を確認するまでロケットへの搭乗を拒否しました。まさに影の立役者と呼ぶに相応しい存在です。
性能、堅牢性、そして製品寿命を高めるためにブランパンがムーブメントに採用する部品にも同じことが言えます。新しいモデルや複雑機構が脚光を浴びる中で、持ち主のために時計の価値を支えているのはそれらの部品だからです。こうした部品もまた影の立役者。本号では、可変慣性フリースプラングテンプ、シリコン製ヒゲゼンマイ、複数の主ゼンマイを収めた香箱という3つの部品にスポットライトを当てていきます。
フリースプラングテンプと慣性モーメント調整
時を刻む時計の心臓部に最も近い部品といえば、テン輪とヒゲゼンマイを置いて他にありません。このふたつの部品の特性は、歩度を左右する重要な役割を担っており、それゆえ歩度を調整する機構の鍵も握っているのです。現在、時計の精度に微調整を施すためには、主に2種類の方法があります。最も普及しているのは、緩急針を利用する方法です。緩急針はヒゲゼンマイを制御する部品であり、テン輪の中心軸を回転の軸とする小さなアーム部分を指します。このアームを移動させるとヒゲゼンマイの有効長が長くなったり短くなったりし、歩度を調整することができます。時計を調整するために、時計職人はこの小さな緩急針を物理的に押し、その位置を変えることで歩度の微調整を行っています。12つ目は、テン輪と「慣性モーメントの調整」を活用する方法です。慣性モーメントの調整を利用した機構(時計職人たちは「フリースプラングテンプ」という用語を使います)では、ヒゲゼンマイを両端にしっかり取り付け、長さを固定します。歩度の微調整を行うときには、テン輪に取り付けられた幾つかの重いネジ(通常4個)を内側か外側のどちらかに回します。歩度に及ぼす影響を理解するために、回転するアイススケート選手と比較してみましょう。ネジを外側寄りに動かすとテンプの慣性モーメントが大きくなり、回転が遅くなります。
1 時計は通常、1つの水平姿勢と4つの垂直姿勢から成る5姿勢で調整します。時計の持ち主の多くは、時計を着用した腕の動きで一日の間に絶えず姿勢が変わることから日差の誤差が生じると考えますが(±0秒が理想)、歩度調整では各姿勢の誤差、全姿勢の平均日差、最大姿勢偏差を計測します。
アイススケート選手が腕を広げるところを思い浮かべてください。ネジを内側寄りに調整すると、慣性モーメントが小さくなり、回転速度が早くなります。アイススケート選手も腕をたたむとスピンが速くなりますが、それとまったく同じ原理です。
慣性モーメントの調整は緩急針式よりも優れた点をいくつも有しているため、すべてのブランパンのムーブメントに採用されています。第1の利点は調整時の精度です。ブランパンのテン輪にはゴールド製の調整用ネジが4個取り付けられています。時計職人はこれらのネジが歩度に与える変化を正確に把握しているため、細かな微調整を行うことができます。例えば、「4分の1回転は日差X秒に相当する」といった具合です。一方、緩急針の機構においては、歩度の調整に偶然の要素が付きまといます。時計職人は緩急針のアーム部分を軽く押して位置を変えますが、それで歩度がどの程度変化するのかはテストを行うまでわからないのです。第2の利点は堅牢性、安定性、そして耐衝撃性です。緩急針のアームを利用した通常の構造では、下面に2本の微小ピンがセットされ、その間にヒゲゼンマイを配置しているので、微調整を行っても衝撃で乱れる場合が出てきます。するとアームの位置が僅かにズレて歩度が変わってしまいます。さらに、ヒゲゼンマイは2つのピンの間を通ってい
るものの、固定されているわけではないので、ピンの間のスペースを上下に動いて歩度を僅かに乱す恐れもあります。以上のような不都合は、慣性モーメント調整機構には存在しません。慣性モーメント調整機構の設計や部品の構造との相違点を見てみましょう。調整ネジは、緩急針の回転式アームと異なり、たとえ衝撃を受けても基本的に同じ位置に留まります。同様に、ヒゲゼンマイの両端がしっかり固定されているので、外側の先端部が2つのピンの間で揺れることもありません。
シリコン製ヒゲゼンマイ
長年の間、スイス製時計のヒゲゼンマイは、ニヴァロックスと呼ばれる特殊合金で製造されてきました。この合金は、他の既存の素材に対して大きな利点を有しているため、時計産業では非常に広く普及していました。しかしブランパンがムーブメントに採用しているシリコンは、それまでヒゲゼンマイに使用されていたあらゆる素材を凌駕しており、多元的なメリットを備えています。
まず最適な形状です。金属製ヒゲゼンマイは、ワイヤーを引き抜き加工によって細めてから螺旋状に曲げる製法で製造されます。この製造方法は長い年月を経て大きく進歩しており、輪郭やゼンマイの形状を均一化できるまでになりました。とはいえ、完璧な絶対性には至っていません。一方で、ハイテク素材であるシリコンは、基本的に完璧な形状で製造することができます。シリコン製ヒゲゼンマイは機械を使って極薄の金属を引き抜いて曲げるのではなく、シリコンウエハーに深い彫り込みを施す高度なプロセスを用いて製造されているため、完璧な形状を実現できる上に、寿命を迎えるまで安定してその形状を維持できるのです。それだけでなく、このプロセスでは断面のバリエーションを最終的な形状に組み込むことが可能です。するとムーブメント設計者(「コンストラクター」)は、ヒゲゼンマイの断面ごとに固さや柔らかさを指定でき、ムーブメントの設計の特徴に応じて性能を最適化できます。ムーブメントの特徴にここまで特別な調整を加えることは、従来の金属製ヒゲゼンマイではまず不可能です。
第2の利点に等時性が挙げられます。等時性とは、主ゼンマイが解けるにつれてムーブメントの動作が受ける影響の度合いを指す時計用語です。時計動作は、ゼンマイが完全に巻き上がった状態とほぼ解け切った状態とでどのように変わってくるのでしょうか。一般的に言えば、時計が完全に巻き上がった状態だと、ほぼ解け切った状態に比べて、テン輪やヒゲゼンマイ、脱進機に伝わる力の量が大きくなります。通常はこの差によって振り角も変化します。時計の持ち主の多くは、時計の性能を考える際に、1日あたりの秒数の増減で評価する傾向がありますが、時計職人やムーブメント設計者はまず「振り角」と呼ばれるものに注目します。
振り角とは、脱進機から衝撃を受けるたびにテン輪が振れる角度を指します(多くの人がこれをテン輪の「振幅」と呼んでいます)。振り角は290度に収まることが理想とされています。また、主ゼンマイが完全に巻き上げられていると、振り角はほぼ解け切った時と比較して大きくなる傾向があります。2
シリコンは等時性の誤差を抑える特性を有していますが、その正体は、香箱が緩むことで衝撃の力が変化する時の反応です。金属製ヒゲゼンマイと比較すると、シリコン製ヒゲゼンマイは、力の変化から受ける影響が遥かに小さいため、時計の持ち主にとって、時計の巻き上げ具合が変わっても時計の動作が一定に近づくというメリットがあります。
また、シリコンは金属製ヒゲゼンマイに比べて軽量なため、精度の面でも優れています。テン輪とヒゲゼンマイは重力の影響を受けることから、時計の姿勢が変わると歩度に僅かな誤差が生じる場合があります。この現象を説明付ける要因は複数存在しますが、そのひとつにヒゲゼンマイの重心と回転軸のズレが挙げられ、このズレによる重力の作用で振り角の大小が変わります。また時計の姿勢の変化に応じて生じる、摩擦や潤滑油の偏りも要因のひとつです。シリコンは軽量性に優れた素材なので、こうした影響は軽減されます。
また、耐磁性も魅力のひとつです。シリコンは非磁性であるため、磁場の影響を受けません。金属製ヒゲゼンマイが磁化しやすい素材から製造されている場合、強力な磁場に近づけると、繊細な部分が磁気を帯びてしまう恐れがあります。その結果、ヒゲゼンマイの一部が他の部分に引きつけられたり、あるいは反発したりします。どちらの場合であれ、磁気帯びによってヒゲゼンマイの性能が、ひいては時計の動作に影響を与えてしまいます。シリコンは磁化しないため、こうしたトラブルも回避できます。
ヒゲゼンマイの性能の経年劣化についても忘れてはなりません。従来の素材を使ったヒゲゼンマイは、時間が経つにつれて剛性が低下してしまう場合があり、歩度と等時性に悪影響を及ぼす恐れがあります。一方でシリコンは安定しているため、時計が齢を重ねても金属疲労が生じるようなことはありません。
2 逆説的ですが、歩度はゼンマイが解けて振り角が小さくなった時よりも、完全に巻き上げられて振り角が最大の時の方が遅れます。つまり、香箱のゼンマイが緩むにつれて時計の歩度は進みます。この現象を理解するには、振り角が最大の時よりも小さい時の方が、テン輪の回転に要する時間が少なくなるという見方をするとよいでしょう。
マルチバレル
ブランパンのムーブメントには複数の香箱が備わったものが多く、ツインバレル式とトリプルバレル式があります。当然、ムーブメントの動力源である香箱を2つまたは3つ搭載すれば、ロングパワーリザーブを実現することができ、トリプルバレル式は8日間もの駆動時間を誇っています。しかしパワーリザーブは長さが全てではありません。ムーブメントの性能は時間の経過と共にどう変化するのか、という問題も等しく重要です。この問題は、等時性の性能はどうなのか、と言い換えることができるでしょう。
ブランパンでは、ムーブメントに複数の香箱を搭載する場合には香箱同士を連結させています。「外側」の香箱は、リューズあるいは自動巻機構の巻き上げ用の部品に直接接続します。「内側」の香箱は、時計の輪列に直接接続させます。ここで、時計の巻き上げ具合が異なっても動力を安定して供給させる巧みな設計が求められます。基本的な発想は、内側の香箱が解けるにつれて、外側の香箱(3つ以上の場合は外側に位置する2つの香箱)で動力を補給するというものです。この方法ならば、香箱のゼンマイが緩んでも調速脱進機(テン輪、ゼンマイ、脱進機)のトルクが大きく安定し、等時性の向上につながります。この基本原則は言うが易しですが、実行に移すにあたっては入念に設計を検討しなければなりません。この設計で重要だったのが、ブランパンのムーブメント専門エンジニアが行った香箱用主ゼンマイの特性に関する綿密な計算です。内側の香箱は、外側の香箱に比べて主ゼンマイの動力を抑えた設計になっており、ゼンマイが緩むと、連結している強力な主ゼンマイで巻き上げられる仕組みになっています。
ここまで紹介してきた各設計の特徴をよく眺めてみると、ある共通点が浮かび上がります。それは、どれもスポットライトの当たらない舞台裏に隠れていながら、ブランパンのムーブメントの性能を向上させる上で欠かせない存在だということです。