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Chapter 6

地中海 という惑星

地球で最も多くの人が訪れる海岸に 手つかずの世界を求めて。

このチャプターの著者

ローラン・バレスタ

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ローラン・バレスタ
地中海 という惑星
地中海 という惑星
Issue 21 Chapter 6

海中の世界に情熱を抱くきっかけをくれ たのは、地中海沿岸でした。美しさと多様 性で知られるこの海岸は、地球で最も多く の人が訪れる場所。長きにわたり無計画 な都市化が進められ、夏にはバカンス客 が押し寄せ、産業排出物による汚染が繰 り返されてきました。前世紀、その状況は 悪化の一途をたどり、保護区以外の海域 では水深50mまで破壊が進んでいます。で は、それより深いところは?手つかずの世 界が広がっているのでしょうか?地中海 沿岸で、私はその美しい姿を目にしたので す。10分、20分、調子が良い日には、30 分 ほどだったでしょうか。とはいえ、その深さ まで潜ると、水圧の変化に体を慣らすため に4~6時間かけて水面に上昇する必要が あります。それしか方法はありません。

過去20年にわたり、私は地中海の深海を 観察してきました。水中での体験は、ほん の短い時間でも強烈な感動を与えてくれ ます。私が水中写真を撮る理由のひとつが それで、わずか数分間の潜水の喜びをそ の後もずっと味わっていたいからです。数 分間が数時間のように感じられる体験を したのは、2019年の夏のこと。その体験が きっかけのひとつとなり、私はあるプロジェ クトを思い立ちました。フランス沖の地中 海で、28日間連続で潜水するというプロジェ クトです。これを可能にする方法は 1つ、ス キューバと飽和潜水の融合です。クストー 司令官が愛した言葉、「海洋潜水士」あるい は「潜水技術者」になるためには、スキュー バと飽和潜水の両方の利点を活かし、自 律性と機動性を兼ね備える必要があった のです。

2019 年 7 月 1日。揃いの赤いウェットスーツ を着た私たちの背後で、重い金属のドアが 閉まると、月に向かう宇宙船に乗り込んだ ような感覚に包まれました。しかし実際に 私たちが向かおうとしているのは、地図が 作られている月面よりも未知なる世界。フ ランスの地中海沖、水深70m ~140mの深 海です。海に浮かぶ広さ5m²の加圧された 居住ステーション「バティアル(Bathyale)」 に入った 3名の仲間、ヤニック、ティボー、ア ントナンと私は、自ら志願した囚人のような ものでした。食事をするのも睡眠を取るの も、すべてその居住室の中。潜水以外に、 私たちに逃げ場はありませんでした。毎日、と きには 1 日 2回、小さなバスルームで着替え、 潜水鐘に潜り込み、深海へと下りていきま す。潜水鐘の下部にはバスケットが装備さ れ、ダイバーたちはそこから、海上にいるチ ームが整備した潜水器材を受け取ります。 海上では、各ダイバーの分身となる「アバタ 右ページ上:海洋潜水士たちを乗せた潜水鐘が、 バティアル ステーションを離れ、海の底へと 進んでゆく(写真:ジョルディ・チアス) 右ページ下:海洋潜水士たちと潜水鐘、カシデー ニュ灯台、カシ沖 - 水深70m ー」が待機。アバター役を務めるのは、それ ぞれが絶対の信頼を置く人物です。ほか の人が整備した器材で潜るというのは、ほ かの人が用意したパラシュートで飛び降り るようなもの。例えば、水中で私の補佐をし てくれたティボーのアバター役を務めたの は、彼の奥さんであるジュスティーヌでし た。ティボーにとって、ダイビングインストラ クターでもある彼女以上に信頼できる人 はいません。ヤニックも身内に適任者を見 つけ、彼の器材を担当したのは兄のセドリッ クでした。ヤニックは極限の状況下で映像 を撮影するのですから、そうした大きなミッ ションに、信頼できるアバターは欠かせない 存在です。ヤニックのライティングの補助と、 潜水の科学的側面を担当したアントナン には 2名のアバターが必要でした。フローリ アンが各種手配とサイエンスを担当。トー マスは、アントナンの友人で世界中で行う あらゆる調査活動でサポート役を務めて きた人物です。そして、私のアバターを務め たのは、スペインから参加したジョルディで した。彼は優れた水中写真家で、リブリー ザーに関する経験も豊富です。そして何よ り重要だったのは、私の 5台のカメラの管 理ができるということでした。

安心してリブリーザーを装着した私たち は、ケーブルでつながったダイバーたちと 違い、潜水鐘から離れて自由に動き回るこ とができました。ダイブを終えると、潜水鐘 に戻って水面まで浮上し、居住ステーショ ンへ。そこで私たちは食事を取り、次の潜 水まで身体を休めます。潜水のたびに減圧 する必要はありませんでしたが、探査がす べて終わった後、約 5日間かけて居住ステ ーションで減圧をしてからでないと、重い 金属のドアを開けて外の空気を吸うことは できません。

海洋潜水士たちを乗せた潜水鐘が、 バティアル ステーションを離れ、海の底へと 進んでゆく(写真:ジョルディ・チアス)

海洋潜水士たちを乗せた潜水鐘が、 バティアル ステーションを離れ、海の底へと 進んでゆく(写真:ジョルディ・チアス)

海洋潜水士たちと潜水鐘、カシデー ニュ灯台、カシ沖 - 水深70m

海洋潜水士たちと潜水鐘、カシデー ニュ灯台、カシ沖 - 水深70m

数時間単位の潜水となり 潜水期間は28日間。

地中海という惑星近づき、ドアを解錠し、 船外へ出て、探索…。これらの表現は 間違ってはいないが、これは宇宙の旅 ではなく、生命に満ちた海底の旅なのです。

地中海 という惑星
地中海 という惑星
海綿動物に覆われたドーム、ラード・ ダゲ - 水深90m

海綿動物に覆われたドーム、ラード・ ダゲ - 水深90m

初回の潜水から驚くような感動体験が始 まりました。私たちはもはや、ボートの縁に 座り、背中から海に入っていくダイバーで はありません。「バティアル」から出動する 海洋潜水士なのです。振り返ると、潜水鐘 が青い海の中で徐々に小さくなっていく姿 が見えます。潜水鐘は私たちが海上に戻る 唯一の手段。最初は潜水鐘が見える範囲 で探索を行いました。時間に追われること なく、ゆっくりと前へ進むうち、だんだんと 周りがよく見えるようになってきます。

南フランスに位置するカランク国立公園の この島は、1950年代にジャック・イヴ・クス トーが潜水を行った場所で、そこで撮影さ れた海底の映像は映画『沈黙の世界』とし て発表され、あらゆる世代の人々に感動を 与えました。そんな歴史ある場所が、私た ちの冒険の舞台となりました。この新しい ゴンベッサ探索プロジェクトには3つの目 的がありました。

潜水へのチャレンジ:飽和潜水のおかげで、 数時間単位での潜水が可能に。プロジェク ト実施期間は28日間。 科学的調査:「バティアル」のほかに、海洋 探査・保護を行う団体「アンドロメド オセア ノロジー」の双胴船、ザンブラ号も帯同し ていました。ザンブラ号に乗っていた責任 者ジュリー・デテールは、この新しいゴンベッ サ探査ミッションの科学プログラムの責任 者で、水資源局とモナコ科学センターの命 による研究調査の監督を務めていました。 複数の試験計画:環境DNA、生物音響 学、フォトグラメトリー、サンゴ藻が形成す る海底生態系(Coralligenous)の光合成 と呼吸の代謝バランスの研究など、複数の 試験が実施されました。 希少種やその行動など、今までに目にしたこ とがないような姿を撮影。中には自然環境 で初めてカメラに収めたものもありました。

水深70mで過ごしたのは3時間。潜水鐘か らさほど離れていないというのは、1回目の 船外活動の安心材料でした。しかも、初回 にしてすでに、ヨーロッパオオヤリイカに遭 遇できるというご褒美が!10年前に一度見 て以来の再会となったこのイカは、密かに 行動し、現れてもすぐに姿を消してしまう 生物です。

でも今日は様子が違います。2匹が目の前 で交接しているではありませんか!オスが メスの下に入り、触腕を絡ませています。そ の後、オスは下方の腕を持ち上げて曲げる と、メスの外套膜にすべり込ませました。特 殊化された腕で精子の詰まったカプセル をメスの体内にある卵の近くに届けている のです。交接の直後、メスは小さな洞窟に入 り、その天井部に受精卵の長い塊を産み付 けました。ヨーロッパオオヤリイカの交接は 生涯に一度だけ、生後1年目、ときには3年 目に行われます。短い生涯に、たった一度だ け、その生命を失う前に生命を宿す。

そんな行為を初日に目にし、初めて写真に 収めることができたなんて。なかなか幸先 が良いスタートです。私たちのプロジェクト は28日間。毎日こんな新奇な出会いが期待 できるのでしょうか。

交接するヨーロッパオオヤリ イカ(Loligo forbesii)、リウー諸島、 カランク国立公園 - 水深68m

交接するヨーロッパオオヤリ イカ(Loligo forbesii)、リウー諸島、 カランク国立公園 - 水深68m

私たちが呼吸するのは、ヘリウム97%、 酸素3%の混合気体。この気体を肺の中に取り込むと、 通常の10倍の速さで体の熱が奪われます。

潜水鐘に戻った私たちは凍えるような寒さ を感じていました。私たちが呼吸するの は、ヘリウム97%、酸素3%の混合気体。こ の気体を肺の中に取り込むと、通常の 10倍の速さで体の熱が奪われます。水深 100m地点の水温は、摂氏14度で安定し ていましたが、南極の海よりも寒く感じるの です。それでも、深い海で呼吸する際に窒 素や高濃度の酸素によって起きるてんか ん性けいれんや、窒素酔いと呼ばれる中 毒を避けるためには、正確に配合されたこ の混合気体が必須です。ただ、ヘリウムは 声帯に影響するので、お互い何を言ってい るのか殆ど分からないほど声が変わってし まうのが困りもの。そのため、居住室内で の意思疎通と海上チームとのやり取りに は、声を(ほぼ)通常のトーンに戻すシステ ムとマイクを使いました。

タグボートにゆっくりと曳かれ、居住ステー ション「バティアル」は次の潜水地点へ。私 たちはマルセイユとモナコを往復しなが ら、21の地点で潜水しました。移動距離に して600km。潜水場所には、生命に満ちた 美しいポイントを選びました。特に重点を 置いたのは、私が「地中海のサンゴ礁」と 呼んでいる場所でした。

ダイブを終え、潜水鐘に戻って きた潜水士たち

ダイブを終え、潜水鐘に戻って きた潜水士たち

それは、温暖な海域に見られるサンゴ礁の ように見えて、実は別物。正式には「サンゴ 性リーフ(Coralligenous reef)」と呼ばれる 海面から離れた水深70m~120mに広が る独特の生態系であり、フレンチリビエラ の海水浴客からは見えない存在です。生き 物たちのオアシスそのものが生きています。 この礁を形作っているのは有機体、基盤と なるのはサンゴ藻です。そこに海洋ぜん 虫、石灰海綿綱、サンゴ、軟体動物などが 集まってきて、構築と破壊を繰り返し、層を 重ねていくことで、この基盤はより強固にな っていきます。紅藻が礁を作り、酸性の海 綿動物がそれを削り取る。掘るものもいれ ば、築くものも、溶かすものもいれば、固め るものもいる。そんなふうに相反する働きを する生物たちがそれぞれ大勢いるのです。 これは、偶然の幸運で保たれているパワー バランス。構築する側の生物ばかりで、破 壊する側がいなければ、礁は凹凸も割れ目 もない、巨大な一枚岩になってしまい、魚 たちの住処も、甲殻類の隠れ家も、ヤギ目 のサンゴも見られないでしょう。画一化で はなく多様化によって生まれるより豊かな 環境。これはまさに多様性の賜物です。こ の礁には現在、1,600種を超える生き物た ちが棲息しており、それらは地中海の深海 固有の生物たちです。中でもたくさん見ら れるのが光り輝くパロットシーバーチと呼 ばれる魚。あまりに多いので、それが普通 になってしまい、非常に珍しく特別な魚で あることを忘れてしまうほどでした。何年も の間、出会える日を待ち望んでいたパロッ トシーバーチ。よく見られるパーチに近い 魚ですが、両者の間には、わずかながらは っきりとした違いがあります。こちらは体が より細く、目が大きく、はっきりとしたツート ンカラーの鱗を持ち、尾びれの端が糸状 に伸びているのが特徴です。それがすぐ目 の前に姿を現し、初めて生きた姿を写真に 収めることができたのです。そういう瞬間 が励みとなり、大変な苦労をしてここまで 来てよかった、と思えるのでした。

バティアル ステーションの居住室:わずか 5m²の空間で寝食を共にする

バティアル ステーションの居住室:わずか 5m²の空間で寝食を共にする

地中海 という惑星

バティアルは減速し、モジュールが離脱して、軌道を 離れると、 4名の海洋潜水士たちは重量によって水深 120mの海底へ。 地中海という惑星に接近します。

「バティアル」が減速し、モジュールが離 脱して軌道を離れると、重力が4名の海洋潜 水士たちを水深120mの海底へと連れてい きます。地中海という惑星に近づき、ドアを 解錠し、船外へ出て、探索を開始。これら の表現は間違ってはいませんが、これは宇 宙の旅ではなく、生命に満ちた海底の旅で す。ここは不毛の地ではなく、変わった形 や、奇妙な行動や、敵をあざむく企図にあ ふれた場所。得体の知れない生物たちの 世界は実に摩訶不思議です。動いている のかいないのか、無害なのか有毒なのか。 疑いの目を持つようになります。突如、どこ までも腕を広げていく生物に遭遇。この生 物を初めて発見した自然科学者は、催眠 術をかけられたような感覚に陥ったに違い ありません。うまく表現する言葉が見つから ず、悩んだ末、見たものを石にする力を持つ ギリシャ神話の怪物ゴルゴンにちなんで 「ゴルゴノセファルス」(和名:テヅルモヅル) と名付けたのです。毒々しいこの怪物は、実 は無害で、ヒトデの仲間です。ヒトデとの違 いは、枝分かれを繰り返している5本の腕。 何度も枝分かれし、先端がくるりと丸まっ ているテヅルモヅルは、直径10センチほど しかありませんが、その腕を伸ばすと幅1m にもなります。ヒトデと同じように水中に配 偶子を放出することで、お互い触れること なく離れていても繁殖できるのです。

奇妙なことに、触腕で互いに触れ合ってい る姿も観察されています。この繊細な行為 の理由は今も解明されていません。海底で は、さまざまな生物たちが静かに、または 激しく、あるいは永遠に、または命がけで、 地上の者には決して分からない形で、情熱 が繰り広げられているのでしょう。

探査期間の中盤に差し掛かった頃、ステ ーションは、モナコ海洋博物館のある沿岸 に停泊していました。小さな舷窓からは、 岩の上にそびえ立つ博物館の歴史的建物 は見えません。それどころか、周りの様子は ほとんど分かりません。あえて狭いところに 閉じこもっているという異常な状況。窮屈 なキャビン、無限に広がる深海。鉄製の居 住室内のむせ返るような暑さ、氷のように 冷たい水中で体内に浸透してくる寒さ。動 けない室内での無力感、生命力みなぎる 船外での緊張感。すべてが管理された屋 内、あらゆる制限から解放される屋外。刻 々と変化する環境にさらされる海洋潜水 士たち。閉所の恐怖からめまいへ、灼熱か ら極寒へ、怠惰から重労働へ、被害妄想か ら恍惚へ、内省から探査へ、落ち込みから 大きな自信へ。1日2回味わう真逆の世界の ギャップはあまりに激しく、まったくついてい けません。それなのにまた潜りたいという 強い欲求が湧いてくるというのは、この体 験の究極のパラドックスです。

ヴィルフランシュ沖では、居住ステーション 「バティアル」は崖の斜面が水中に潜り込 んでいる場所に配置されました。

このポイントでの潜水は、今回のミッショ ンで最も深い水深145m。ここでは、アルプ スが地中海まで落ち込んでいます。静かな 深海に入り込んだギザギザとした壁。これ はかつての海岸で、2万年前には海面がこ の位置にあったことを示しています。深く潜 ることは時間をさかのぼること。圧倒され るようなこの斜面は、フランス沖の地中海 でも特に落差が激しく、最上部が50m、最 下部が 200~ 210mの地 点にありま す。145m地点は、日光が1%しか届かない メソフォティック ゾーン(中有光層)です。こ こまで深くなると、光量が減ると視界が良 くなるというパラドックスが生じ、見事な光 景を写真に収めることが可能になります。 目の前に斜面が広がり、突然、登山家の視 点を味わうことに。そして、海の中にはもう ひとつの世界があるのだと気付かされ、感 動するのです。

カナイユ岬、カシ沖 - 水深68m

カナイユ岬、カシ沖 - 水深68m

ゴルゴノセファルス(和名:テヅル モヅル、Astrospartus mediterraneus)、ル・グラン・ コングルエ、カランク国立公園 - 水深62m

ゴルゴノセファルス(和名:テヅル モヅル、Astrospartus mediterraneus)、ル・グラン・ コングルエ、カランク国立公園 - 水深62m

クロサンゴの森(Antipathella subpinnata)、 バン・デ・ブロキエール、カランク国立公園 - 水深78m

地中海 という惑星

ここで生き物はあまり見られません。それ はまさに発掘しなければ出会えない宝石 のよう。海底の生物たちは、山に咲く蘭の 花のように人々を魅了します。なぜならそれ は、手が届かない存在だからです。

探しに行かなければ会えない生物もいれ ば、近寄ってくる生物もいます。

不思議なマンボウは鱗がなく、寄生虫に攻 撃されやすいデリケートな皮膚を持ってい るので、掃除魚たちを探して深海を泳ぎ回 っています。

次に私たちが向かうのは森です。海中に雪 が降ったのかと思うほど、すべてが霜で覆 われているような光景が広がります。雪が 積もった森を作っているこの白い木々の正 体はクロサンゴ。ジュエリーの材料になる 骨格の部分は黒色ですが、その表面とそ れを覆うポリプは白いのです。

クロサンゴが白い森を形成する。そこには 悲しいパラドックスがあります。クロサンゴ という名前の由来は、生きて輝く姿ではな く、死んだ姿。人間は、この生物本来の堂 々たる姿よりも、自分たちが利用する部分 しか見ていないのです。そのクロサンゴに 近づいてみると、寒さを吹き飛ばすような 熱い場面を目撃することになりました。クロ サンゴが毒針を持つクラゲを麻痺させてい るのです。海のスズメバチと呼ばれるこの クラゲは、宿敵に出会ってしまったのです。 フランス沿岸で見られるこの白い森は3か 所でしか見つかっておらず、それらすべて が水深80~100mの場所にあります。一部 の専門家は、これらの小さな森は、数千の クローンが集まってできたひとつの巨大な 個体であると考えていました。ですが、採取 したサンプルから、いくつかの枝(綱)には 性別があり、その多くがメスであることが 分かりました。つまり、別の個体が生まれる 可能性があるということです。遺伝的多様 性は有性生殖によって生じるため、これは かなり心強い発見です。ここに棲息するク ロサンゴは、急速な気候変動の影響を受 けにくいと思われます。

雪を頂いた枝には、オキノスジエビの姿もあ ります。赤い体に白い線と青い斑点の入っ たおびただしい数のオキノスジエビが群れ をなし、ひとつの風景を作り出しています。 数千匹のエビたちはすべて、お互いの触覚 を触れ合わせてつながっているので、少しで も触覚に触れると、警告メッセージが群れ の隅々にまでリアルタイムで伝わります。オキ ノスジエビは、ソーシャルネットワークと高 速情報伝達システムを備えているのです。

クロサンゴの罠にかかったオキクラゲ(Pelagia noctiluca)、バン・デ・ブロキエール、カランク国立公園 - 水深78m

クロサンゴの罠にかかったオキクラゲ(Pelagia noctiluca)、バン・デ・ブロキエール、カランク国立公園 - 水深78m

スワローテール シーパーチ(Anthias anthias)、 バン・デ・ブロキエール、カランク国立公園 - 水深78m

スワローテール シーパーチ(Anthias anthias)、 バン・デ・ブロキエール、カランク国立公園 - 水深78m

孔雀ワーム(Sabella pavonina)が広がる場所、 カシデーニュ灯台、カシ沖 - 水深72m

地中海 という惑星

海底は、ストレスの多い海岸沿いから 避難してきたすべての生物にとって、 残された最後の安寧の地です。

一方、私たちはといえば、外部との連絡が 断たれた状態。外には生後 1か月の娘が待 っているというのに。こうなったら、ミッショ ンに集中するしかありません。この特殊な 時間を有効活用するために、読書をした り、海底で撮影してきた写真のデータを整 理したりして、何とかやり過ごしていまし た。潜水中は、一瞬一瞬が楽しくて仕方あ りませんでした。何しろ、ステーションでの 監禁生活は、ときに耐え難いものでしたか ら。特にヤニックは辛そうでした。とはいえ、 過酷な状況ではあっても、自分たちがこの 上なく幸運であることも自覚していまし た。 4週間のミッションにより、深海の生態 系について、これまでの20年間で得られた ものよりもはるかに多くのことが明らかに なるはずです。今回の潜水で、これまでの 情報を肉付けするような新たなデータが 得られたからです。再びウェットスーツを着 込み、減圧を始める前の最終段階の潜水 活動を行う準備を整えました。

「バティアル」は、マルセイユ沖へと戻って きました。この海域には、数多く沈没船が 眠っています。ゴンベッサ チームは生物学 者と自然科学者からなるチームなので考 古学者はいませんが、今後は、飽和潜水を 用いた他の分野の研究調査も進むことで しょう。貨物船ナタールや、ポルト=ミウ沖、 水深100m地点にある古代の壺が山積す る場所を、 6時間かけてじっくり調査するこ とを夢見ている考古学者も多いはずです。

ついに、最後の潜水のときがやってきまし た。ティボーと私から数 m離れたところで、 アントナンが海上で待機している科学者 チームのために最後の堆積物サンプルを 採取しています。沈泥サンプルを分析する と、18種の農薬、16種の炭化水素、17種の 金属、41種の発がん性のあるポリ塩化ビ フェニル(PCB)など、複数の指定危険物質 が検出されました。人間は、こんなに深い海 の底にも目に見えない痕跡を残しているの です。

海の巨大な生物たちは、人間たちから受け るストレスに耐えきれず深い海の底へと移 動したのでしょう。怪物のようなアンコウ も、アナゴも、戦車のように大きなロブスタ ーも。沿岸部でおなじみのウツボたちも、 繁殖のために暗がりへと移動します。巨大 な生物たちは、邪魔されることも、絶滅に 瀕することもない場所を求め、小さな人間 たちから遠く離れた海の底へと移動したの です。海底は、ストレスの多い海岸沿いか ら避難してきたすべての生物にとって、残 された最後の安寧の地です。科学では、そ うした棲息地を「レジリエント エコロジカル ニッチ(回復力のある生態的地位)」と呼び ますが、巨大生物たちは、ニッチを見つけ られたのでしょうか?

ニシアンコウ(Lophius piscatorius )

ニシアンコウ(Lophius piscatorius )

地中海のウミトサカ類(Alcyonium acaule)の中にいるガラスエビ(Periclimenes scriptus)、ポールクロ国立公園 - 水深65m

地中海のウミトサカ類(Alcyonium acaule)の中にいるガラスエビ(Periclimenes scriptus)、ポールクロ国立公園 - 水深65m

マンボウ(Mola mola)、タイヤ岬、ラマチュエル - 水深130m

マンボウ(Mola mola)、タイヤ岬、ラマチュエル - 水深130m

メタリックなナガレモヘラムシ(Idotea metallica)の 変態、ソセ・レ・パン - 水深6m

メタリックなナガレモヘラムシ(Idotea metallica)の 変態、ソセ・レ・パン - 水深6m

地中海は死んではいません。 そこにはどんな未来が 待っているのでしょうか?

最後の浮上を始めた潜水鐘の中で、私は それまでの 4週間を振り返りました。砂漠 のオアシス。生命あふれる巨大な森林。さ まざまな表現ができますが、とにかく言い たいのは、地中海は死んではいないという ことです。そこにはどんな未来が待ってい るのでしょうか?文明の揺りかごであり、と きには戦場に、ときには詩人たちが集うサ ロンとなってきた地中海。社会のゴミ箱で もあり、バカンス客のプールでもあり、難民 たちの墓場でもあります。いつか地中海を 「私たちの善行の証」と呼べる日が来るの でしょうか?「持続可能性を実現する研究 所」となる日が来るのでしょうか?ほぼ隔離 された海底は、あらゆることが起こりうる場 所であり、悪いことも良いことも、すべてが 増幅される場所です。唯一変わっていない のは、地中海には今なお、豊かな生命が息 づいているということ。生命力あふれる地中 海の鼓動はまだ止まっていないのです。

2019 年 7 月28日。「バティアル」のドアが開 き、私たちは新鮮な空気を吸いました。 28日間の驚愕と感動に満ちた旅。居住ステ ーションは古めかしく質素でしたが、最後ま でしっかり働いてくれました。どんな旅にも、 それぞれに移動手段があります。惑星へ 向かう宇宙船のように、「バティアル」は海底 を旅しました。深く広大な海の底は、近くて 遠い惑星です。水深100m 、120m 、140m。距 離にすると大したことがないのに、簡単には たどり着けません。そこに広がる世界は、近 くもなければ遠くもなく、実はあらゆるところ に遍在しているのです。そこにたどり着く ということは、パラレルワールドの一部に至 るということ。私たちはとても遠くまで行き ましたが、全く別の惑星に行っていたわけ ではありません。そう、近くて遠い地中海 という惑星も、私たちの暮らす地球の一部 なのです。

地中海 という惑星
地中海 という惑星

Chapter 07

雲豹

東南アジアを巡る芸術の旅。

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レイラ・マンスール
雲豹
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