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Chapter 2

偉大な 女性実業家

スイスの時計メーカー初の女性CEO兼オーナーで あった彼女は、世界恐慌、世界大戦、ビジネス パートナーの死、クォーツ時計の登場など、数々の 危機を乗り越えてブランパンを育て上げました。

このチャプターの著者

ジェフリー・S・キングストン

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ジェフリー・S・キングストン
偉大な 女性実業家
偉大な 女性実業家
Issue 21 Chapter 2

彼女の功績はレディバードやフィフティ ファゾムスなど多岐にわたりますが、生前、 選挙権を持つことはありませんでした。

「ベティ」の名で皆に親しまれているベル ト-マリ・フィスターは、第一次世界大戦が 勃発する僅か2年前の1912年にキャリア をスタートさせました。二度にわたる世界 大戦、世界恐慌、ビジネスパートナーの 死、癌との闘病、スイス時計産業に壊滅的 な打撃を与えたクォーツ危機。こうした困 難の中で舵を取り続けた彼女は、先導者 としてブランパンを活気づけ、フィフティ ファゾムスやレディバードといった先駆者 的なタイムピースを生み出すことで、ブラン ドをムーブメント大手メーカーへと成長さ せました。またベティは、存命中にスイスで 女性普通選挙権が成立しなかったにも拘 らず、女性初のスイス時計ブランドCEO兼 オーナーでもありました。

ブランパンの発祥地であり、その後2世紀 以上にわたり本拠地となった場所が、スイ スの僻地の村であるヴィルレです。現在、 ヴィルレを訪問する際に北側の丘を登り、 近隣のレ・プランシュに向かってみれば、 ベティの記念碑に出くわすでしょう。胸像 はシュズ川の渓谷の向こう側を眺め、台座 には彼女の生年である1896年と没年の 1971年が記されています。他界してから半 世紀近くが経過した今でも、彼女はヴィル レの年長者たちから敬意を受け続けてい ます。ベティのキャリアに充実した一章を 捧げずして、ブランパンの歴史を叙述する ことはできません。

フィスター ・ファミリー。前列に姉マル グリット(ギーズ)、母マリー、父ヤコブ、 後列に弟モーリス、ベティ。

フィスター ・ファミリー。前列に姉マル グリット(ギーズ)、母マリー、父ヤコブ、 後列に弟モーリス、ベティ。

ヴィルレの工房。

ヴィルレの工房。

ヴィルレにあるベティを讃える記念碑。

ヴィルレにあるベティを讃える記念碑。

ベティはビジネス界のトップまで上り詰め ましたが、特権に恵まれた世界の出ではあ りません。むしろその反対に、彼女が最初 に進んだのは、研修付きの基礎教育という 慎重で堅実な道でした。ただし彼女は幼 少期の育ちから既に、生まれた町に根付く 時計産業へ導かれていたと言えるでしょ う。父親のジャコブ・フィスターが、彼の妹 の家族と共同で小規模の複雑時計ムーブ メント会社を所有していたからです。この 「マニュファクチュール・デボーシュ・コン プリケ・ウジェーヌ・ラム社」は、ヴィルレを 横切る本通りの先を少し上った場所に位 置しており、1914年にブランパンに買収さ れています。ベティは、時計産業での仕事 を志して、カリキュラムで見習い研修が義 務付けられている地元のエコール・ド・コメル ス(実習と座学を組み合わせた専門学校) に入学しました。その研修先として彼女が 1912年に選んだのが、当時既にヴィルレで 最も大規模な雇用主だったブランパンです。 こうして、後に半世紀以上も人生を捧げ ることになるブランパンとの関係が始まっ たのです。

第一次世界大戦が始まると、ベティはボラン ティアとして非常勤の仕事に志願し、病院に 運ばれてくるフランス負傷兵たちを介抱しま した。場所はヴィルレから数キロメートルし か離れていないサンティミエです。スイスは 大戦中一貫して中立国であり、侵略も免れ ましたが、参戦国がスイス領土に負傷兵 用の病院を維持することを容認していまし た。ただし、回復した兵士を戦場に送り戻 さないという条件付きです。この受け入れ 措置の一環として、負傷者を世話する一般 職員にもスイスへの入国が許可されていま した。こうした訪問に従事していた人物の 一人が、フランス将校補佐官だったアンド レ・レアルです。彼は軍役で戦争中にベティ と出会い、彼女の人生で重要な役割を果 たすことになります。

3年に及ぶ研修期間を経て正規雇用契約 を結んだ1915年に、ベティはフレデリックエミール・ブランパンの助手になりました。 フレデリック-エミールは、1735年にヴィル レで家族企業を創設したジャン-ジャック・ ブランパンから6代後の当主に当たります。 ジャン-ジャックの子孫たちは、技術、政 治、経済が大変動を繰り返す中で、事業を 巧みに導いてきました。彼らの成功を推し 量るために数字を一つ取り上げてみましょ う。1900年まで、ヴィルレを本拠地とする時 計メーカーは20社存在していましたが、それ から3社まで縮小していき、その中でもブラン パンの規模は群を抜いていたのでした。

ベティ・フィスターが直面した厳しい状況を 切り抜けることができたであろうビジネス リーダーはほとんどいなかったと言っても 過言ではないでしょう。

ブランパンで13年の月日が流れた頃、ベティ はフレデリック-エミールの手ほどきを受け て、製造過程全体を監督するヴィルレ工房 の責任者になっていました。彼女の手腕に 絶大的な信頼を寄せていたフレデリックエミールは、ヴィルレからローザンヌに自身 の住居を移し、自分が行っていた日々の監 視とともに事業をベティに任せます。当時、 ベティはブランパン社のオフィスの上に住 んでおり、この建物は今もヴィルレに現存 しています。ところで二人の仕事上の関係 には、非常に現代的かつ先進的な点がひ とつありました。連絡を取り合うために、録音 機の蝋管を郵便で送り合っていたのです。

1932年になると、フレデリック-エミールが 急逝します。娘のネリーは家業を継ぐこと を望んでおらず、ベティに所有権を引き 継いでもらうことが故人の遺志となってい ました。ネリーは父親の死後、一通の心温 まる手紙をベティに認めています。

「父がヴィルレから旅立ってしまい、深い 悲しみに暮れています。でもしっかり聞いて ください。この悲しみを癒やす方法はたっ た一つだけ、それはあなたがレアルさんと 一緒に会社を引き継いでくれることです。こ んな素晴らしい方法があって私は幸運で す。家族で築き上げてきた大事な伝統が 今後もきちんと守られていくのですから。 あなたは、父にとって数少ない大切な協力 者でした。もう一度、いつも深い優しさを示 してくれたことにお礼を言わせてください。 これからもあなたの優しさを胸にして、歩 み続けたいと思います。」

戦時中にヴィルレに親しみを覚えたアン ドレ・レアルは、ブランパンに販売員として 入社し、スイス国外の市場で活躍していま した。ネリーの手紙にも記されている通り、 アンドレはベティと手を組んでブランパン を買収します。

この提携の門出は、順風満帆とは言い難い ものでした。まず、二人は「ブランパン」とい う名称の使用権を失いました。当時のスイ スの法律では、家族名を掲げて設立され た企業は、家族の一員が会社に所属してい ないとその商標を使用できない規定にな っていました。フレデリック-エミールが死 去し、会社が買収された後にはブランパン 家の者が一人も残っておらず、ブランパン という名称が使用禁止になってしまったの です。ここで面白い逸話を紹介しましょう。 今日も現存しているジュネーブのある有名 時計メーカーでは、同じく家族の子孫が欠 けていたのですが、この禁止条項に抜け 穴を見つけました。その方法とは、社外で 同姓の人物を見つけ出し、本人に必要な 技能や時計事業の経歴がないのに入社さ せる、というものです。回りくどい手段を好 まなかったベティとアンドレは、法律が撤 廃されるまでの間、ブランド名をブランパ ンから「レイヴィル」へと一時的に変更しま した。これは町の名前である「ヴィルレ」の 文字を入れ替えた言葉遊びです。

ブランドの指揮を取り始めてから10年間 に直面した問題は、「ブランパン」という名 称の喪失だけではありません。この時期は ちょうど世界恐慌の真っ最中にあり、スイ スのあちらこちらで企業が倒産していまし た。そして第三の打撃がベティに追い打ち をかけます。出張中にパートナーのアンド レ・レアルが事故死してしまったのです。

こうした厳しい逆境に立て続けに直面しな がら、無事乗り切ることのできる指導者は 殆どいないと言っても過言ではありませ ん。しかしベティは類まれな強い精神力、 力強さ、そして鋭い感性を兼ね備えていま した。時計産業に吹き荒れる経済的な逆 風の中で、他の時計メーカーが以前と同じ 方法で事業を継続することが困難になっ ていることを見て取った彼女は、別の方向 に舵を切ります。ブランド時計メーカーとし て全ての時計を維持する代わりに、彼女は レディスウォッチとレディスウォッチ用ムー ブメントの製作に焦点を絞ったのです。こ れは並外れたノウハウを必要とする専門 領域でした。時計職人にとっては常識です が、小型のタイムピースやムーブメントの開 発・製造には、大型化よりも遥かに大きな 困難を伴います。自ら工房を監督していた ベティは、フレデリック-エミール時代の製 造技術を隅々まで熟知しており、その技術 に磨きをかけることによって、ブランパンに 確かな基盤を築き、レディスウォッチを代 表するブランドとして時計界の市場を席巻 したのでした。

ヴィルレの工房、1963年頃。「レイヴィル」 という名前は、ブランパン家の最後の一人が亡く なった後に数年間ブランドが使用。スイスの法律 によって変更を余儀なくされました。

ヴィルレの工房、1963年頃。「レイヴィル」 という名前は、ブランパン家の最後の一人が亡く なった後に数年間ブランドが使用。スイスの法律 によって変更を余儀なくされました。

偉大な 女性実業家

ベティは人格からも容姿からも威圧感 を漂わせていました。しかしベティには 謙虚でとても従業員思いな一面があり、 何よりも家族を大切にしていました。

ベティにはマーケティングにおいても鋭い 洞察力を備えていました。アメリカ経済に は世界の他の地域に比べて活力があると 判断した彼女は、アメリカに焦点を合わせ て、女性用のタイムピースを販売するため の密接な提携を築き上げます。完成品に 適用される懲罰的な関税を回避するため にベティが取った対策は、ほぼ完成した時 計(ムーブメント、文字盤、針)を内部ケー スに収納した状態で販売するというもの。 購入者側が自ら外部ケースを製作してブ ランパンの時計を収納するこの巧妙な取 引方法は、大成功を収めました。

ベティは冷徹なビジネススタイルを貫き、誰 かが逆らうことを容認しませんでした。人格 からも容姿からも威圧感を漂わせていた、 と言えるでしょう。しかしベティには謙虚で とても従業員思いな一面もありました。彼 女は、工房で働く従業員全員はもとより、配 偶者や子供のことまで知ろうと努力してい たのです。また、従業員一人ひとりに毎年 大きな贈り物を配ることも彼女の習わしで した。それは取り分け用の大皿の場合もあ れば他の銀製品だったこともありました が、共通していたのは、贈り物に特別な意 味が込められていたという点です。また、 ビジネス界に普及する何十年も前から従 業員の福祉を考えており、レイヴィル広場 と呼ばれる娯楽スペースを作って、従業員 の子供たちが安全に遊べるように考慮しま した。ヴィルレきっての雇用主である彼女 は、従業員のために特別な集会や祝賀会 を企画して、尊敬を集めるようになってい きました。

ベティは生涯独身でしたが、自身の周りに 家庭を築き上げていきました。確かにブラ ンパンの従業員との近さから家族のような 強い絆が芽生えていましたが、自身の甥や その子どもたちへの献身はそれ以上のも のでした。とりわけベティが可愛がってい たのが甥のジャン-ジャック・フィスターで す。ジャン-ジャックは、スイスでは非常に著 名な詩人であるベティの弟、ジャック-ル ネ・フィスターの息子です。第二次世界大 戦の間、ジャン-ジャックは両親とエジプト のアレクサンドリアに住んでいました。彼が スイスに帰国したのは1945年のことで、博 士号取得を目指してローザンヌ大学で歴 史学を学び続け、教授になることを目指し ていました。当然、ベティは甥の学業を全 面的にサポートしています。

幼いジャン-ジャックと妹ニコルと一緒にいるベティ。

幼いジャン-ジャックと妹ニコルと一緒にいるベティ。

1965年、ジュネーブのブティック「レ・アンバサダー」 のオープニングでのベティとジャン-ジャック。

1965年、ジュネーブのブティック「レ・アンバサダー」 のオープニングでのベティとジャン-ジャック。

ベティとジャン-ジャックの仕事上の関係は大きな 成功を収め、伝説の「フィフティファゾムス」や 「レディバード」、マリリン・モンローのブランパン イブニングウォッチの制作を実現しました。

1950年になると、ベティが最初の癌の発作 で体調を崩してしまい、事態が一変しま す。彼女には2つの選択肢がありました。 1つ目はジャン-ジャックにブランパンの経 営を手伝ってもらうこと、2つ目はブランパ ンを売却することです。時計製造やビジネ スの方面で一切経歴をもたなかったもの の、ジャン-ジャックが叔母を手伝う決心を したため、ここに約20年にも及ぶ叔母との 共同経営体制が始まります。思慮深いベティ は甥に個人指導を行い、生産から、財務、 販売、流通までブランパンの業務を一通り 経験させました。二人は協力関係を通じて 多くの快挙を成し遂げており、伝説の「フィ フティ ファゾムス」やレディスウォッチ「レディ バード」の開発、マリリン・モンローのブラ ンパン製イブニングウォッチの制作を実現 しました。また、時計とムーブメントの年間 生産数も20万本以上まで拡大しています。

こうした成果を可能にしたのが、次々と達 成した時計業界初の偉業です。二人の協 力体制からはまず、レディバードに使用さ れた世界最小のラウンド型ムーブメント (11.85 mm)が開発されました。このムー ブメントは記録的に小さい直径で注目を 集めたのみならず、他の小型レディスムー ブメントを凌駕する堅牢性を備えていまし た。小型化と頑丈さを見事に両立させた のが、輪列に歯車を一つ追加するというイ ノベーションです。また、ブランパンはこれ と同じ時期に、リューズを時計の裏側に配 置した画期的なレディスウォッチを世に送 り出しています。この配置のおかげでデザ イナーは、レディスウォッチの形状を格別 エレガントに仕立てることができました。同 じく極 小 の バ ゲットムーブメント (7x18.6mm)もまた、この時代におけるブ ランパンの専売特許となっています。フィフ ティ ファゾムスの突出した偉業は、年代記 として既に詳述したとおりであり、数々の 特許を取得したイノベーションと鋭い洞察 力こそが、本モデルを生み出し、ダイバーズ ウォッチの歴史において傑出した地位を 確立するに至らせたのです。

ブランパンに加わったのはジャン-ジャック だけではありません。兄弟のルネとジョル ジュもまた、それぞれ叔母から役割を与え られました。ルネの野望はアメリカで人生 を築くことであり、そんな甥に対して、ベティ はブランパンの代表として米国市場を開 拓するよう託します。ルネが営業活動の中 で出会った人物、アレン・V・トルネクは、の ちにブランパンの米国販売業者となり、ブ ランパンが米海軍と「フィフティ ファゾムス MIL-SPEC」の供給契約を締結するのに 一役買っています。ジョルジュはベティから 別の役割を託され、妻と二人で南米市場 を開拓する仕事を任されました。

マリリン・モンローのブランパン ウォッチ。

マリリン・モンローのブランパン ウォッチ。

レディバードの数あるジュエリー バージョンのうちの一つとフィフティ ファゾムス。

レディバードの数あるジュエリー バージョンのうちの一つとフィフティ ファゾムス。

ベティは甥を寵愛し、ブランパンの重要な 役割を与えましたが、それに劣らず彼らの 妻と子どもたちにも愛情を注ぎました。ルネ は妻になる女性と大西洋横断中に出会い ましたが、結婚して間もなくの頃、巨大なト ラックが二人の新宅の前に止まり、叔母の 選んだ大量の高級家具が届けられました。 この出来事の前にも、ベティは花嫁にジュ エリーの贈り物をしており、きちんとした女 性になるには宝石で着飾るべきだ、という 彼女の信念が表れています。また、甥たち に子供が生まれ家族が大きくなると、誕生 祝いとして、一人ひとりの子供にモノグラム 入りの銀食器一式を贈りました。そして成 長した子供には、それぞれブランパンのタ イムピースというさらに貴重な贈り物を贈 っています。ルネ・フィスターの息子(ルネ三 世)が今も大事にしているベティの贈り物 は、ブランパン特製の超薄型イブニングウ ォッチです。パワーリザーブは12時間です が、ベティはこの長さでも十分だと考え、「 紳士がイブニングウォッチにそれ以上のパ ワーリザーブが必要かしら?」と述べたよ うです。しかし、贈り物よりも注目したいの は子どもたちに対するベティの熱心な躾で あり、彼女は大叔母よりもむしろ祖母に近 い態度で接しました。ルネ三世は、ベティの 自宅で開かれるブランパンの重要な会議 に居合わせた当時のことを回想します。この 自宅はベティが「アン・シャンドレ」と呼んで おり、ローザンヌ近郊のピュイに位置してい ました。ベティはルネ三世が会議に出席す ることにこだわり、真剣な問題について議 論しているにも拘らず、甥が行儀悪くテー ブルに肘をついていないかなど、全てに目 を光らせていました。幼い甥の子供を会議 に参加させるのですから、ハプニングは避 けられません。ある経営会議でのことです。 ルネはベティの家の地下室で不思議な バルブを発見しました。誘惑に負けてバル ブを回すと、会議は中断となりました。バ ルブによって庭の大きな噴水から水が溢 れ出し、ベティと経営チームが水浸しにな ってしまったからです。

ベティは必然的に慣習や伝統も大切にし ていました。クリスマスになると、集まった 家族の前で、子供たちが一人ひとり歌や 演奏をする決まりになっていました。そこに は禁止事項もあります。ローザンヌにある 彼女の自宅には、稀少なアンティークや工 芸品が並ぶ一室があり、子どもには出入り が禁止されていました。そこでルネ三世の 弟がルールを破ってしまうのですが(幸い 貴重品はすべて無事でした)、それを自ら 告白した甥に対して、ベティは正直さのご 褒美にヨットの模型を与えています。規律、 マナー、伝統、ルールに厳格であるからと いって、楽しみを蔑ろにしていたわけではあ りません。ある経営会議で停滞した空気を 察知すると、いきなりベティは子供と経営 陣をゴーカートに連れ出しました。皆で外 に出た後、ベティはジュエリーで飾った正 装のままカートに乗り込み、経営陣のメン バーも仕事の装いでスタートラインへと並 びます。そこで彼女はなんと反対方向に向 かって発進してしまったのです。呆然とした 経営チームと子どもたちは、ベティの裾が たなびく様子を眺めるばかりでした。また、 フランスの地中間沿岸リヴィエラに位置す るカーニュ=シュル=メールの自宅で、ジャ ン-ジャックの家族とひとときを過ごした後 の出来事です。ベティは、「ジャン-マリー (甥の息子)はもう飛行機に乗っていても いい年頃だわ」と宣言し、そのまま二人で ニースからジュネーブまでフライトに出か けてしまいました。

1956年に発売されたレディバードと その広告。

1956年に発売されたレディバードと その広告。

レディバード

レディバード

1968年 クリスマス

親愛なる友人たちへ

昔むかし……幼い頃に読んだおとぎ話は、こんなふうに始まりましたね。私もこの言葉を 借りて語り始めたいと思います。昔むかし、時計製造業界が深刻な危機にさらされてい た1932年のこと。私と私の同僚を信頼してくださった数名の友人たち(そのうち何名か は、今夜ここに来てくれています)が、その信頼の証として、ブランパンの経営権の獲得 に力を貸してくださったおかげで、レイヴィルS.A.を創設することができました。

今夜、皆さんにお別れを告げるこの場をお借りして、友人たちに心からの感謝を伝えたい と思います。私たちは皆、私の同僚アンドレ・レアル氏の顔を忘れることはないでしょう。そ して、辛かった暗黒の日々のことも思い出します。あの不遇の時代に、私たちは力を合 わせ、少しずつ状況を好転させ、最後には輝く栄光を手にしました。レアル氏が急逝し た後も、変わらぬ信頼をお寄せくださったことにも重ねてお礼申し上げます。

あれから長い年月が経ちました…

今日、私の甥であるジャン-ジャック・フィスターがレイヴィルS.A.の総合責任者となる 意思を示してくれました。私は今後も会長のまま残ります。私にとって、この名誉ある肩 書はとても大切なものです。私の人生は努力の連続であり、先ほど申し上げたとおり、 皆さんが信頼と友情と理解をもって導いてくださったおかげで元気に乗り越えられま した。この肩書によって、そんなこれまでの人生から完全に切り離されることなく、つな がりを保つことができます。

直接お会いしてお別れを言うことができないのは残念ですが、動けない私に会いに来 てくれたり、お花を贈ってくれたり、電話をかけてくれたりして支えてくださったこと、美 しい本のプレゼントで私を楽しませてくださったことに、感謝の意を述べたいと思います。 本当にありがとう。

人生のすべてをかけてきた仕事を離れるとなると、やはり寂しさや涙がつきものです ね。でも今は、過去と現在の友人たちを思い、笑みを浮かべながら、皆さんが楽しいク リスマスと素晴らしい新年を迎えられるようお祈りしています。レイヴィルは、ジャンジャック・フィスターと彼の同僚たちの指揮の下、これまで同様の成長を続けてまいり ますので、どうかご安心ください。皆さんには、美しい時計の歯車のように、この前途洋 々たる企業の一端を担っていること、その受益者であることに、日々喜びを感じていた だけるでしょう。

では最後にもう一度、メリークリスマス。

1968年のクリスマスにベティ・フィスターが発表 したメッセージは、彼女の役割が名誉会長となる ことを告げるとともに、彼女の全面的な監督の下で 経過した30年以上を振り返るものでした。

1968年のクリスマスにベティ・フィスターが発表 したメッセージは、彼女の役割が名誉会長となる ことを告げるとともに、彼女の全面的な監督の下で 経過した30年以上を振り返るものでした。

ベティは紛れもなく偉大な 女性実業家であり、彼女が残した 伝統は今日のブランパンまで 脈々と受け継がれています。

ベティはブランパンの所有者になった直後 に3つの危機を経験しましたが、キャリア の後半にも新しい重大な困難に直面しま した。当然ながら第二次世界大戦は事業 への大きな圧力となりましたが、それにもま して深刻だった問題が、1960年代にやっ てきた全般的な売上の後退でした。アジア 勢力の台頭とクォーツによって、スイスの 時計産業全体が大打撃を受けていたので す。ベティはジャン-ジャックと力を合わせ て、オメガ、ヌーベル・レマニア、ティソとの 合併会社「SSIH(スイス時計工業株式会 社)」設立に奔走しました。同社では、それ ぞれの時計メーカーがアイデンティティを 保ちながら、生産を効率的に維持・拡大す るために資源を共有しました。当然、ベティ はこの新企業の取締役会のメンバーにな っています。彼女は会議を主催し続け、場 所はローザンヌ付近の自宅か、フランスのリ ヴィエラにある第二の別荘を好みまし た。SSIHにおいて、ブランパンは構成メー カーにムーブメントを供給することで重要 な役割を果たしています。

ブランパンと後のSSIHの指導的な立場と して重要な人物だったベティは、芸術の世 界やローザンヌ、カーニュ=シュル=メール においても、あちらこちらに顔を出しては最 高級レストランで食事を取り、大きな存在 感を示していました。彼女は洗練された趣 味の持ち主であり、オーブッソンのタペスト リー、ピカソやルノワールの作品、そして古 代イコン画を収集していました。特にイコ ン画は、拡大した家族のメンバーに贈り物 として何点も贈っています。ローザンヌの 街に繰り出す彼女は、芸術への情熱を反 映する上品な服とジュエリーで身なりを飾 っていましたが、装いには奇抜なアクセント もありました。ジュエリーで美しく飾り立 て、冬には毛皮を着るなど、常にエレガント な服装で着飾っていた彼女ですが、ピンク のテリークロスでできた寝室用スリッパを 履いていたのです。実はこれは、彼女が悩 まされていた慢性的な足の痛みによるもの です。

彼女は1971 年 9月にビエンヌで他界しま したが、心揺さぶる二つのコーダによって 人生を締めくくりました。まずは彼女が死 の直前に、甥の息子であるジャン-マリー に書き残した誕生日祝いのメッセージで す。これは本人の死後、ジャン-マリーの誕 生日だった月末に届けられました。そして 次に、オープンスペースやレクリエーション 用にと、ヴィルレの町にレ・プランシュの大 きな一画が捧げられました。この土地には 現在、記念碑が立っています。

ベティの輝かしい実績は、彼女だからこそ 残せたものでした。スイスのビジネス界で 女性に影響力がなかった時代において、 彼女は単に成功を収めただけでなく、困難 な障害を次々と乗り越えていきました。彼 女は、伝統に深い敬意を払いながらモダニ ティを受け入れるという、独自の道を切り 開きました。ベティは紛れもなく不世出の 女性実業家であり、彼女が残した伝統は 今日のブランパンまで脈々と受け継がれて います。

偉大な 女性実業家

Chapter 03

カラー

フィフティ ファゾムス バチスカーフ に広がるカラーパレット 。

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